
事業は終わった。それでも人生は「近づいた」——タイ起業12年の撤退と再生 TalentEx創業者・越陽二郎
2013年にタイで起業し、2024年に上場企業へのM&Aを実現。だが翌年、12年育てた事業の終了が決まる。資金ショート、共同創業者の離脱、コロナ禍を乗り越えた越陽二郎の記録と、タイ起業の実務13項目。(取材・文:グローバルファウンダーズ編集部)
プロローグ 12年の戦いの後で
タイでHRテック企業を創業し、日本企業と海外人材をつないだ。資金が尽きかけ、創業メンバーが離れ、コロナ禍では全社員を解雇した。それでも一人で会社を立て直した。2024年には上場企業へのM&Aを実現した。ところが翌年、12年育てた事業の終了が決まった。
黒字化、人、外部環境——長く会社を経営するなかで、多くの起業家が直面する三つのハードシングスを、越陽二郎はすべて経験した。
それでも12年を振り返った最初の言葉は、「挫折」でも「やり切った」でもなかった。
「近づいた、という感じです」
何に近づいたのか。12年の戦いが終わったあとに残ったものは何か。
前半では、日米を往復した少年がタイで起業し、M&Aと事業終了を経て、41歳で再び歩き始めるまでを追う。後半では、その12年から得た海外起業、現地経営、撤退、M&Aの実務知を13項目に整理した。
第1章 異なる国を往復する少年時代(1984〜2008)
越陽二郎は1984年に生まれ、幼少期を日本と米国ニューヨークの間で往復した。
米国では、英語と現地社会に溶け込むことに苦労した。日本へ戻れば、今度は集団の空気と暗黙のルールに合わせ直さなければならない。両方を知りながら、どちらにも完全には属していなかった。
のちに彼は、日本企業とタイ人材の間に立つことを生業にする。異なる前提を持つ人間同士の言葉と期待を翻訳する仕事——その原型は、太平洋を往復した少年時代にすでにあった。
東京大学では社会心理学を学び、休学してアジアを旅した。バングラデシュでトイレを設置し、タイで物資を届けるNGO活動にも参加した。「世のため人のために生きろ」「お天道様に恥ずかしくない生き方をしろ」——父の言葉だ。母からは、誰かを笑顔にすることを叩き込まれた。
理想と身近な人の幸せ。このテーマについて越はこの後の12年間、何度も問い直すことになる。
第2章 自分の感じた課題を元に起業(2009〜2013)
新卒で日本能率協会コンサルティングに入り、スマホ広告スタートアップのノボットへ転職。ノボットがKDDI系medibaに買収された後、タイ拠点の立ち上げでバンコクに渡った。
そこで彼を待っていたのは、採用の壁だった。日本語とITの両方がわかる人材を探そうにも、既存の求人サービスでは人物像がまるで見えない。同じ悩みを抱える日系企業は、いくらでもあった。
そしてもうひとつ、海外拠点責任者として知った現実がある。タイでは今日決めたいことが、日本本社では稟議の一案件になる。成果責任は現地に、意思決定権は本社に。——この海外事業における権限の難しさを、彼はこのとき骨身に刻んだ。12年後、彼は同じ構図の中で、自分が育てた事業と向き合うことになる。それはまだ先の話だ。
2013年、越は会社を辞めた。
タイには残りたい。だが理想の転職先はない。日本に帰るか、MBAか、別の国か。選択肢を消していった先に残ったのが、起業だった。
Ookbee共同創業者からのエンジェル投資3万ドルを受け、タイ人IT人材向け求人サービス「JobTalents」をローンチ。起業前に自分が困ったことを、そのまま事業に変えた。
第3章 1つめのハードシングス「黒字化」(創業3年目)
最初に立ち上げたJobTalentsは約1年で単月黒字化したものの、会社を安定して回せる規模には届かなかった。創業からの3年間は、月10万円の売上をつくるだけでも大変だった一方、チームの維持には月100万円以上が必要だった。初期の調達資金も約1年でほぼ尽き、会社は崖っぷちに立っていた。
JobTalentsは、タイ人IT人材とタイや日本の企業をつなぐ求人サイトだった。企業情報を詳しく伝え、スキルテストやFacebook・LINEでの求人拡散を取り入れた。採用が決まったときだけ企業が支払う成功報酬型で、採用された求職者には「お祝い金」を出した。しかし、経営基盤を安定させるには、購買力のある日系企業との取引を増やす必要があった。

そこで2015年、越は日本語を話すタイ人求職者と日系企業をつなぐ「WakuWaku」へ軸足を移した。オンライン求人と対面の就職フェアを組み合わせ、企業と候補者がウェブ上で接点を持ち、会場で直接会える場をつくった。第1回の就職フェアには50社・1200人が参加し、2016年にはウェブサービス化し400社を超える日系企業が利用していた。

事業が伸び始めても、会社の資金繰りは安定しなかった。越は「資金調達できるかは市場の大きさで決まり、黒字化は経営者の経営力でしか実現できない」という言葉を、創業当初から意識していたという。
「マーケットを選べば、資金調達はできることがあります。でも、黒字化は別です」
「家賃を払い、家族を養い、毎月続ける経営力は、別で求められます。僕の最初の3年は、ずっとそれとの格闘でした」
最も象徴的な出来事は、創業3年目に起きた。
WakuWakuの一事業を売却し、その資金で次のSaaS事業へ挑戦する計画だった。ところが、売却交渉は契約直前で破談になった。入金がなければ、3日後には給与を払えない。
メンターに泣きつくと、返ってきた答えは救いではなかった。
「借入に頼っても、その資金はすぐになくなってしまう。まずは売上をつくって、この状況を乗り越えることを考えよう。それが難しいのであれば、もうきっぱり諦めて会社を畳む。」
当時のWakuWakuの商品は1件10万円前後。越は電話をかけ始めた。採用予定のない相手に、1年分のパッケージを「いま」買ってくれと頭を下げる。押し売りであることは、本人が一番わかっていた。
カフェではテーブルに頭をつけ、土下座の格好で頼み込んだ。10人に依頼し、8人が応じてくれた。
中でも、長年の仲間が応じてくれた瞬間のことを、越は「本当に生きててよかったなと思った」と振り返る。自分の挑戦をずっと見てきたから、助けてくれる。その信頼に応えるために頑張らなければならない——。
会社はつながった。だが、なぜ8割もの人間が、金を出したのか。
答えは、それまでの蓄積にあった。越は新しく出会った人にまず「この人は何を求めているか、自分に何ができるか」を考え、提供できなければ人をつなぎ、情報を渡す。見返りがなくても、まず先に貢献する——それを自然と繰り返してきた。
資金繰りを救ったのは、資金調達のテクニックだけではない。何年も前から積み上げてきた信頼だった。
この時期、越を支えたのは仲間だけではない。共同創業者が全員去り、一人になったとき、彼は本気で会社を畳もうとした。それを止めたのは、幼稚園教諭だった妻の一言である。
「でも、まだやりきってないんでしょう」
ビジネスの詳細を知る人ではない。だが、その一言で越は気づいた。つらいから辞めたいだけで、成したいことには何も近づいていない。つらいから辞める、じゃない——。
会社は生き延びた。しかし、次の危機は「キャッシュフロー」ではなかった。
第4章 2つめのハードシングス「人」
ある日、タイ人メンバーが越に言った。
「みんな辞めちゃうし、ここにいても自分の将来は見えない」
社員が2年以上定着しない時期があった。創業期のメンバーも去った。越は当初、上下関係の薄いフラットな組織を理想としていた。だが、明文化されていない自由は、社員から見れば「何をすれば、いつ、どう報われるのか」が一切予測できない不安定さでしかなかった。
越は制度をつくり直した。遅刻、皆勤、手当、昇給、賞与、評価。会社が社員に求めることと、返せるものを文章にした。定期的に対話し、会社の状況と一人ひとりのキャリアをすり合わせた。
「海外では、自分は外国人で、彼らは自国で働いています。日系企業を元気にしたいと言っても、それだけでは相手の理由にならない。会社が何を目指し、いまどんな状況で、どんなコミットに対して給与や成長機会を返せるのか。相手が何をしたいのかと、きちんとすり合わせる必要があります」
採用では、短い面接だけで見抜けるという前提を捨てた。インターンや業務委託として一定期間一緒に働き、互いの相性を確かめてから正社員を打診する。長く知る人へタイミングを見て声をかける。TalentExでは、インターンとリファラルからの採用が多かった。
「採用の間違いは、育成では取り返せないと言います。性格や実力だけでなく、いまの会社の状況とその人が本当に合うのかは、面接だけでは分からないことの方が多い。だから、先に一緒に働いてみる方法は、今でも間違っていなかったと思います」
異文化マネジメントとは、国民性を攻略することではない。背景の異なる人同士でも誤解しにくいよう、期待と意思決定のルールを設計することだ。
組織は安定し、事業は伸び始めた。WakuWaku Job Fairが転機となり、4期目で初の通期黒字を達成した。そして2018年、越の目は思いもよらない方角を向く。
モスクワから東へ800キロ。タタールスタン共和国カザン——。
第5章 3つめのハードシングス「市場環境の変化」
きっかけは、日ロデジタル協力のセミナーだった。ロシアには高度なIT人材が豊富にいる。だが、日本企業へつながるルートはほとんどない。
タイで5年かけて磨いた「国と国の間に立つ力」を、越は旧ソ連圏に持ち込んだ。カザンを拠点に、ロシア・アルメニア大学やトビリシ国立大学などと連携し、日本語教育と日本企業への就職支援を進めた。エンジェルから出資を受け、事業はアルメニア、ジョージアへも広がった。
初対面のアルメニアの大学理事長に、その場で返せるものなど何もない。それでも越のやり方は変わらなかった。相手が期待するもの——日本の大きなプロジェクト、クライアント——を見定め、取れるアクションにコミットして見せる。「こいつが来たら、また会ってやろう」と思われる何かを、必ず差し出す。
事業は急成長した。ロシア事業は1年で、タイ事業が5年かけて積み上げた売上を超えた。2019年には、全社売上も前年比200%に達した。
だが、この急成長には前提条件があった。人が、国境を越えられること。
2020年4月。コロナ禍でタイはロックダウンに入り、日本でも緊急事態宣言が出た。面接ができない。ビザが出ない。内定者が渡航できない。人材事業の売上は「9割9分、ゼロに近い状態」まで蒸発した。
「毎日、胸が痛いどころか、息ができなくて苦しい」
たまたまその1カ月前、越はオンラインサロン「コシクロ」を立ち上げていた。コロナを予期したわけではない。だが、人材の売上が消えたあと、会社に入り続けたのはサロンの会費だけだった。仲間に窮状を話せたことが、精神の命綱になった。
手元には2,500万円のコロナ融資。だが固定費は毎月200万円。つまり——残り時間は、1年。
砂時計は、ひっくり返された。
第6章 自分では気づけなかったリストラという選択肢(2021)
越は毎月、200万円が溶けるのを見ていた。
売上はつくれない。コロナがいつ終わるかもわからない。それでも「何かが変わるかもしれない」と待った。リストラという選択肢は、頭の中に存在すらしなかった。
「全社員をリストラすることは、会社を辞めることであり、人生が終わることであり、そこまでやってきたすべてがパーになることだと思っていたんです」
転機は、仲間の一言だった。長年の盟友に「リストラはどうか」と示唆されたとき、越は想像すらしていなかったから、「え?」と言ったきり無言で別れた。
受け入れるのに、3日かかった。
その3日で、越は信頼する経営者2人に話を聞きに行った。1人は「半年でやり切ってダメなら辞める、と期限を区切って再チャレンジしろ」と言い、もう1人は「それで辞めることになっても、越さんは大丈夫。あなたがやってきたことは無駄にならない」と言った。
半年だけ、何も考えず超頑張る。ダメなら辞める。——そう腹落ちして、越はタイ正月・ソンクラーンの前日に、全社員に切り出した。
2021年、TalentExは全社員を解雇し、全拠点を閉じた。
「リストラをしないということは、何も決めていないのではなく、現状を変えないと意思決定し続けていることなんです」
「来月も200万円が消え、3カ月で600万円がなくなる。判断が遅れると、その600万円を失うという意思決定をしているということになるんです」
越は、手遅れになる前にリストラを決断できた。
リストラして、覚悟を決めた。社員ゼロ。拠点ゼロ。それでも越は、諦めなかった。
人材事業をほぼ止め、サーバーだけを残し、「人材以外のことを何でもやります。助けてください。案件ください」と頭を下げて回った。DX支援、海外事業開発、スタートアップ支援。創業者がひとり、何でも屋になって稼ぐ。
半年ほどで財務は持ち直した。会社は死ななかった。だが今度は、創業者自身の身体が悲鳴を上げる。
第7章 ICUのベッドで(2022〜2024)
2022年、妻と3人の子どもたちは日本へ本帰国した。越はタイに残った。家族と離れ、一人で会社を再建する日々。
そんな中、スポーツ中の事故で脳内出血を起こし、ICUに運ばれた。

病床で越は考えた。
自分が死んだら、会社はどうなる。経営者保証付きの借金は。社員は。——家族は。
創業者一人でも会社は続けられる。それはコロナで証明した。だが、創業者一人にすべてが依存する会社は、創業者が倒れた瞬間、家族に重い負担を残しかねない。病室で、その現実が輪郭を持った。
それから、越は事業承継とM&Aを現実的に検討し始めた。M&A仲介や知人に声をかけ、本人の記憶では十数社程度と対話した。もともとつながりのあった会社とほぼ話がまとまりかけたとき、たまたま出会ったのがポーターズだった。
2024年1月、ポーターズはTalentExタイ法人の株式を取得し、子会社化した。
売り手として最初に思い描いた金額から、期待値を半分以下まで下げての成立だったと越は明かす。
「売り手が欲しい金額と、買い手が合理的だと思う金額にはギャップが絶対あるんです。多くの場合、倍から数倍違う。そのとき大事なのは、金銭以外の価値です。売却で得るものは、金額一つではないんです。社員の給料、自分の給料、オフィス、開発サポート、時間。金額以外の価値も含めて判断する必要がある。」
そして、越が求めていたのは金額以外の価値だった。
WakuWakuは残り、創業者個人への依存と家族へのリスクを減らす道が開けた。そして、30代を捧げたタイから、次の挑戦へ動く時間が手に入った。「ユニコーンを目指す以外の選択肢を作りたい」——売却時に語った言葉には、そういう意味が込められていた。
そしてM&A後、創業者の役割は大きく変わった。
「それまでは自分が全部を決めていたのが、意思決定者から実行者、執行者になる。そこへ順応することが、一番変わるところだと思います」
越はそれをつらいこととは捉えない。ドリブルで評価されてきた選手が、アシストもできると示すようなものだという。大きな組織の予実管理、計画、ガバナンスを学べる時間でもある。
第8章 事業終了——12年の挑戦が幕を閉じる
ポーターズ傘下で、越はWakuWakuの再成長へ取り組んだ。対象職種と人材を広げ、収益モデルも変えた。越によれば、2025年には売上が再び伸び、黒字化が目前に見えていた。
そんな中、事態は急展開を迎える。
その頃、越には「日本で家族と暮らしたい」という願いがあり、事業を後任へ引き継ぐ予定だった。それがM&Aをした理由の一つだ。
しかし、ポーターズは全社の「事業体制の見直し」の一環として、事業の終了を判断した。
M&Aによって、会社を自分一人のリスクから解放できた。その代わり、事業の存続を最後に決める権利は、自分だけのものではなくなっていた。
「10年以上、全身全霊をかけてしがみついてきた事業が幕を閉じる。言葉にできない気持ちでいっぱいでした」

第9章 成功の指標を広げ、次のチャレンジへ(2026)
2026年1月、越は「株式会社こしワークス」を設立した。
社名は直球だ。越自身が価値を提供する会社である。スタートアップのメンタリング、アクセラレーションプログラム、アジアを中心とする海外進出支援。現在は愛知を拠点に、東京とタイを行き来する。妻の実家がある愛知県豊根村へ海外の人を呼び込む構想も温めている。20年前の自分にはできなかった、いまだからできる恩返しだ。
WakuWakuという事業は終了した。だが、12年で積み上がったものは消えていなかった。日本と海外の間に立つ力。東南アジアでは、越は起業家の間で有数のネットワーカーだ。
越はアジアで築いてきた人脈を、現在の仕事にも生かしている。
「新しい方と出会った時に、その人が何を求めているか、自分に何ができるかをよく見る。提供できるものがなければ、誰かを紹介する、情報を渡す。それが自分に直接返ってこなくても、その人が別の誰かに返して、世界全体で循環すればいい」
若い頃の越は、社会貢献や海外における日本のプレゼンス向上、人材価値の最大化を強く意識していた。いま、その中心にあるのは、自分と家族も含めた「関わる人の幸せ」だ。
売上が伸びても、社員が幸せとは限らない。M&Aをしても、事業が残るとは限らない。会社を守るために健康と家族を失えば、何のための経営か分からなくなる。
越は12年かけて、成功の指標を増やした。売上、利益、企業価値だけでなく、家族、健康、信頼、誰かへ貢献できること。より幅広い指標で自分の人生を見るようになった。
そして、グローバルでの事業を諦めたわけではない。これからはタイという枠を離れ、ほかの国でも挑戦したいことがある。同時に、海外との比較を通じて、日本の素晴らしさもより見えてきた。その結果、いまは日本と海外をつなぐ事業を進めている。
成功の指標を増やすということは、事業の成功を諦めることではない。越は引き続き、チャレンジを続けていく。
エピローグ 大切なものは、欲しいものより先に来た

撮影の合間、緑の多い坂道で、12年前の自分に何と声をかけるかを尋ねた。
越は少し考えて、こう答えた。
「絶対に思い通りにいかない。でも、やる価値はあるから頑張れ——という気がします」
漫画『HUNTER×HUNTER』で越が好きな台詞がある。
「大切なものは、欲しいものより先に来た」
『HUNTER×HUNTER』単行本第32巻、No.338「樹上」
主人公ゴンの父・ジンが王墓を調査した際、調査結果そのものよりも、仲間と目指した場所にたどり着き、握手した瞬間がうれしかったと振り返る場面がある。王墓を一緒に探した仲間の価値を表す言葉だ。
越も12年間のチャレンジを振り返り、同じ思いを抱く。
起業する時は、成功や売却、自由な生き方のような到達点を思い描く。実際には、その通りの形にはならないこともある。越も、資金ショート、別れ、コロナ、事故、M&A、事業終了を予想してタイへ渡ったわけではない。
ただ、3日間、土下座するような気持ちで頭を下げた先に、支えてくれた人がいた。リストラという難しい判断を支えてくれた人がいた。社員が去った後にも力を貸してくれる人がいた。家族の支えがあり、誰かをつないだことで、別の誰かの人生が前へ進んだ。
「起業する時は、成功とか売却とか、何かを目指して始める。でも絶対にその通りにはならない。何かになったとしても、いま思い描いている形とは違う。ただ、『やってよかった』と思う瞬間は、その途中にきっとあるよ、ということです」
思い通りにならなかった12年の道中に、それは確かに、あった。
最後に、「この12年を振り返ると、どう表現しますか?」と質問した。
「一言で言うと、『近づいた』という感じがあるかなと思っています。
もともとは大きな成功を目指していた自分もいたのだけれど、事業を続けるなかで、そういうものへの解像度が上がり、自分にとってそれよりも大事なものが見えてきて。
もともと起業前から、海外に象徴されるような、何ものにも縛られない自由を求めていました。この12年を経て、今後の可能性や、できることの幅はさらに広がりました。そういう意味で、紆余曲折はあったけれど、自分が求めていた幸せに近づいていますね。」
事業は終わった。それでも越陽二郎の人生は、求めていたものに「近づいた」。
取材音声(約 41 分)
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