
歯が溶けても、手は止めなかった――50の挑戦と5,000通のメールを超え、シリコンバレーで「世界一」を目指すRetreat山田俊輔
なんだか泣きそうになりました。
何も持たずに渡米した山田俊輔は、いまや売上数億円の企業向けグループ旅行事業Retreatを率いる。50を超えるプロダクトの開発と撤退を重ねた、その行動力を映す11年の試行錯誤と、海外起業の実務10項目。(取材・文:グローバルファウンダーズ編集部)
プロローグ フードコートの残飯で生き延びた
その男の歯は、溶けていた。
2015年、サンフランシスコ。Amazonが期間限定で開放していた無料のコワーキングスペースには、コーラと菓子だけが置かれていた。
「お金がなくて、そこで甘いものばかり食べていて。最終的に、歯が溶けてました」
食事は、フードコートの残飯だった。家はない。金もない。英語も話せない。事業のアイデアすら、ない。
彼の名は、山田俊輔。静岡県生まれ。当時23歳。日本でのキャリアは、ソフトバンクに新卒入社して約1年――それが、当時の経歴のすべてだった。
それから11年。彼はいま、Retreat Technologies, Inc.の共同創業者兼CEOとして、サンフランシスコで売上数億円規模に達する企業向けグループ旅行の斡旋事業を率いている。著名投資家ジェイソン・カラカニスらから出資を受け、国境をまたぐ11人のチームを束ねる。
だが、それまでの道のりは平坦だったわけではない。
50を超えるプロダクトの開発と撤退。二度の資金枯渇。チームの解散。レイオフ。彼の11年は、苦難の見本市のような歳月だ。
山田は、数々の困難をどう乗り越えてきたのか。
彼を取材しはじめて、まず見えてきたのが異常なまでの「行動量」だった。1日数百件のコールドリーチ。5,000通の営業メール。1年で33回のフライト。4年間、一度も欠かさず毎週土曜日に書き続けたチームへのフィードバック。
これは、動き続けた男の物語である。
第一章 坂の上のシェアハウス(2015)

2015年5月。山田俊輔は、重いスーツケースを引きずって、サンフランシスコの坂を上っていた。
数週間前まで、彼はソフトバンクの社員だった。大学4年次に表参道のソフトバンクショップでインターンをし、そのまま本社のB2B部門へ新卒入社。孫正義への尊敬と通信事業への関心からソフトバンクを選んだ。しかし、営業の現場で隣の席の上司の姿を見るうちに、自分が理想とする将来像とのギャップを感じるようになる。約1年で退職し、サンフランシスコへ渡った。
「その時は本当に、『シリコンバレーを見ておきたい』ぐらいの、観光みたいな気持ちだったんです」
坂の上には、日本人起業家の卵たちが集まる「Tech House」というシェアハウスがあった。そこで山田は、生涯の「兄さん」となる男に出会う。後にAnyplaceを創業する内藤聡である。
そして、街そのものが彼を変えた。
当時のサンフランシスコを席巻していたのは、AirbnbやUber、Dropboxだった。いずれも上場前。「ユニコーン」と呼ばれ、街を沸かせていた企業群である。

「僕のシリコンバレーのイメージは、FacebookとかGoogleとか、一人の天才が100年に1回の奇跡みたいな会社を作る、というものでした。でも実際に流行っていたのは、知らない人の家に泊まるとか、知らない人の車に乗るとか、自分たちでも作れそうな、とても身近なアイデアだった」
「こういうアイデアでも世の中を変えられるんだ、というのが、僕にはすごく希望だったんです」
世界を変えることは、天才の特権ではないのかもしれない。その仮説を確かめるために、山田は動き出す。金も人脈もない代わりに、彼が差し出せるものは行動だけだった。現地のスタートアップを訪ね歩き、YouTubeでの取材を重ねた。その数、約100社。

だが、現実は甘くない。資金は尽きた。フードコートの残飯と、無料のコワーキングスペースの菓子で食いつなぐ日々。歯は溶けた。
「もう人間として終わってましたね」と、彼は当時を振り返って笑う。だが本当の敗北は、その後にやってきた。ビザが切れたのだ。
「アメリカに残れる理由は、頑張って探せばあったはずなんです。でも当時は、その小さな可能性を見つけられなくて。結局、日本に戻ることになりました」
第二章 サービス量産の日々と、一本のブログ記事 — 自分の人生を諦めなかった人間になってやろう
帰国した山田は、フリーランスのエンジニアになった。といっても、プログラミングは独学である。受託開発で生活費を稼ぎながら、多くの挑戦を続けた。
作っては、出す。出しては、畳む。
2019年末までに開発したサービスは50件以上。半年で6つのサービスを公開し、うち4つを譲渡した。約30分で実装したサービスもあれば、20万円で売れたメディアもあった。金額だけ見れば、大きくない。だが、この量産の日々が、彼の武器を鍛え上げた。素早く作る技術。ユーザーと直接話す習慣。そして、ダメなら畳む決断力。

転機は、原宿の夜道で訪れた。ある晩、内藤聡のブログを読んで打ちのめされた。
「その文章には、ジェイソン・カラカニスという著名なエンジェル投資家から出資を受けたことが書かれていました。それがどれだけ難しいことかわかっていたので、衝撃でした。打ちのめされました。自分は何をやっているんだろうと。サンフランシスコで勝負したいと言いながら、日本にいる自分が恥ずかしかった」
山田は、その場で再渡米の航空券を購入する。
「ビザはない。でも、お金は少しある。残れなかった人間なら、せめて戻る人間になろう。自分の人生を諦めなかった人間になってやろう」
山田は当時のnoteでこう記している。
“――(航空券)購入完了の画面が表示されたとき、なにか大きな問題が解決したわけではなかった。未来も何ひとつ見えていなかった。ただ、自分のなかで止まりかけていた時間だけが、もう一度動き出した気がしました。”
2018年から米国との往復を再開し、挑戦を続けた。そして、グリーンカードの抽選に当選し、2019年頃、ついに本格移住を果たす。
一度目の渡米で叶わなかったシリコンバレーでの挑戦を、山田は得意の行動力で再起動させた。
第三章 一晩で1万人、そして誰もいなくなった(2020-2021)
2020年1月12日。山田は、あるサービスの最初のコードを書き始める。日米の時差勤務の経験から着想した、常時接続型のオンライン通話サービス「Remotehour」である。それを使えば、予定を入れなくても、すぐに誰かと話せる。
「その小さな機能こそ、自分自身がどうしても欲しかったもので、まだ世の中にないと信じていたものでした」
開発期間、約2週間。
「思いついてから2週間後に、Product Huntのパーティーに参加する予定があったので、それまでに完成させてピッチしようと、寝る間も惜しまず書き続けました。周りから見れば、きっとテニスボールを追いかける犬のようだったでしょう」
タイミングは、完璧だった。公開直後、世界はコロナ禍によるリモートワークへ突入する。3月の公開時には一晩で1万人以上が訪問した。スタートアップの登竜門であるPioneerトーナメントで世界首位に立った。
だが、注目と資金は別物である。山田は米国の投資家に200通以上のコールドメールを送り、断られ続けた。市場が見えない。確信が持てない。返ってくるのは、丁寧な不合格通知ばかり。
最初に賭けてくれたのは、以前から助言を受けていた投資家Ramon Recuero(連続起業家で、Y Combinatorでも起業家支援をしていた人物)だった。Remotehourの初の外部株主だ。
そして、大きな転機が訪れたのは、当時流行していた音声SNS「Clubhouse」でのことだった。著名エンジェル投資家ジェイソン・カラカニスと直接言葉を交わす機会を得たのだ。その後、ジェイソン本人からDMが届く。彼が主宰するアクセラレーター「LAUNCH」への誘いだった。


選考は、投資家たちの前でピッチを重ね、票を集める形式だ。最初の3回、山田への投資家票はゼロ。壁は英語の質疑応答だった。山田は流暢に話すことを早々に諦め、ピッチに通訳を付けるという割り切った策を選ぶ。それでも、売上不足を理由に採択は一度保留された。普通なら、ここで終わる。だが山田は既存の仕事を後回しにして、約2週間でプロダクトを全面改修。「Remotehour 2.0」として作り直し、初めての課金を生み出し、採択をもぎ取った。
ジェイソンはRemotehourを自ら使い込んだ。Twitterで「5分の打ち合わせを20件こなしたいなら、remotehour.comを試してほしい。最高だよ」と投稿し、自身の番組「This Week in Startups」でも熱っぽく紹介した。

LAUNCHのデモデイを終えると、複数のVCから面談の依頼が届いた。出資元のMIRAISEは、起業家がアポなしで相談できる「MIRAISE HOUR」をRemotehour上で始めた。
無一文だった男が、5年後、シリコンバレーの表舞台に立っていた。
だが、安息の日は続かなかった。
派手な初速とは裏腹に、重視していたKPIは動かなかった。通話が発生しなかったのだ。
約3万人がサインインしたサービスは、失速した。資金調達は破談に終わった。そして――チームメンバーが去った。
約1カ月のうちに、チームとプロダクトの両方を失った。人をつなぐサービスを作っていた男が、自分のチームをつなぎ留められなかった。
なぜ、うまくいかなかったのか。山田は後にnoteで、敗因を自らこう分析している。
最大の要因は、プロダクトに酔ったことだ。シリコンバレーの著名人に使われ、メディアに取り上げられるうちに、目の前の数字よりも「根拠のない自信」が大きくなっていった。課題から出発するのではなく、「これを使って何ができるか」と、手元のプロダクトから逆算して考えるようになっていた。
この敗北の悔しさを、いまだに彼は忘れていない。だから次の挑戦では、やり方を根本から変えた。先にプロダクトをつくるのをやめ、まず顧客の課題を聞きに行く。
ただ、Remotehourが残したのは悔しさだけではない。ユーザーであるフルリモートの組織を間近で見るうちに、山田はあることに気づいていた。オフィスで自然に生まれていた何気ない会話が消え、互いを知る機会が減っている。ZoomやSlackは便利だ。だが、チームが打ち解けるには、実際に会って話すことに代わるものがない。
「人が対面で集まることには、言語化できないような、すごい力があると感じています」
顧客の課題から出発し、オンラインではなくオフラインで人をつなぐ。それが、企業向けオフサイト事業「Retreat」だ。事業形態はC2CとB2Bで異なるものの、どちらも「人をつなぐ」サービスであることは変わらない。

第四章 朝起きて、LinkedInを開く日々(2022)
2021年末から2022年にかけて、同じ法人のまま、山田は企業向けオフサイト(合宿型の社員旅行)事業「Retreat」へピボットする。

コロナ明けの米国では、オフィスを持たない企業が急増していた。オフィスの代わりに、年に数回、ホテルに全員で集まる。そのトレンドを押さえるプラットフォームになる――仮説はあった。だが、プロダクトはない。顧客もいない。チームは、いなくなったばかりだ。
彼は、圧倒的な行動量でこの難局に挑んだ。
「最初のお客さんは、LinkedIn経由です。とにかく連絡し続けて、多い日は1日に数百件送っていました」
ターゲットは、従業員のROIを高める「People Ops(ピープルオプス)」の責任者たちだった。リモート化で物理的な施策を失った彼らが新たに担った仕事が、まさにコーポレートオフサイトだったからだ。
朝起きて、LinkedInを開く。プロフィールを数百件見て、営業メッセージを無料で送れる相手を探し出す。送る。また探す。
「1日、本当にそれしかやっていないんです。朝起きてLinkedInを開いて、LinkedInで終わる毎日でした」
しかも、ただ量を打つのではない。彼のコールドメールには、独自の設計思想があった。「買ってください」とは書かない。代わりに、こう書く――「うちのアドバイザーになってくれませんか。株式をお渡しします」
「相手が何かを得られるものを、毎回必ず生み出しますね」
「売り込み」ではなく、オファー。この発想の転換が、多忙な責任者たちの指を止めた。返信率は3~5%。数百件送れば、十数件の会話が生まれる計算だ。この時期に送ったメールは約5,000通。顧客インタビューは230件に上った。プロダクトなしのまま、Googleスプレッドシートと電話だけで最初の案件を受注し、2022年の記事時点で月間売上は24万ドルを超えていた。
この230件のインタビューで山田が重視したのは、「ヒアリング力」より「取材力」だ。用意した質問を順番に消化するのではなく、相手の職務や会社の事情、言葉になっていない不満まで、記事を書くつもりで掘り下げる。そこで得た示唆がサービスにつながる。
かつて約100社を訪ね歩いた経験は、営業の場面だけでなく、顧客理解の深さにも生きていた。
もっとも、その裏側は綱渡りだった。立ち上げたオペレーションチームは、トラブルによって結成から3カ月で全員が退職。山田は一人で投資家対応と顧客対応を続け、食事を戻すほど身体を壊した。
オフサイトの経験がないなかで、その事業を立ち上げるのは簡単ではない。
「当時はまだプロダクトもない状態だったので、とにかく『できます!』と答えていました。最初は、無料でも構わないという気持ちで、とにかく案件を引き受けていきました。
また、その場ですぐに受注できなくても、商談中に何気なく話していた時期や開催場所をもとに、『こういうプランはいかがでしょうか』と、旅程表やホテルの候補リストを送っていました」
「とにかくギブに徹することを意識し、自分たちが価値を出せることを証明しながら、一歩ずつ道を切り開いていきました」
そこへ共同創業者兼COOとして加わったのが、Jack Tadamiだ。出会いは、大学時代にインターンをしていたあのソフトバンクの店舗である。過去の縁が、崖っぷちの会社を支える柱になった。
Jackは、山田にとっておそらく6人目の共同創業者だという。数カ月で別れた人も、1年、2年と続いた人もいた。しかし、回を重ねるほど関係は長くなり、いまが最も長く、最もうまくいっている。共同創業者選びに「一発で正解する」ベストプラクティスはない。山田の場合、過去の失敗が、役割と期待値をすり合わせる技術に変わっていた。
こうして、山田はRetreatの事業を立ち上げた。
第五章 1年で33回のフライトと、ホテルの涙(2023-2024)

事業は立ち上がった。だが、シリコンバレーの物語は、一直線には進まない。
初年度、山田はほぼすべての案件の現場へ同行した。ロサンゼルス、ニューヨーク、カンクン、リスボン。深夜便を乗り継ぎ、2023年に飛行機に乗った回数は33回。組織を広げ、コミュニティイベントと展示会に大きく投資した。


しかし、結果は年間目標の3分の1未満だった。
その年の最後の出張の夜、彼はホテルの部屋で涙を流した。現場を回すのは、山田とJackを含めてわずか4人。ウクライナやバングラデシュのエンジニアが、時差を越えて開発を支えた。誰もが120%の力で走り、生活の多くを犠牲にした。それでも、努力だけでは目標に届かなかった。
問題は、努力不足ではなかった。むしろ、努力が多方面にわたりすぎた。製品が整う前にリードを集めた。少人数で、営業、イベント、開発、顧客対応を同時に進めた。ターゲットも、人事全般から決裁者へ十分に絞り切れていなかった。最大の武器だった行動量が、彼を裏切った。
2024年。彼は行動を減らしたのではなく、行動の焦点を絞った。そして――さらに行動した。
任せていた営業に自ら戻り、顧客と向き合った。コードを書き、ホテルとの交渉にも再介入した。約2カ月間、平均睡眠は4時間未満だった。Slackの連絡には原則10分以内で返信した。
数字は動いた。山田によれば、2024年末時点の売上は240万ドル(当時換算で約4億円)に迫り、前年比3倍超の水準まで回復した。
一方で、この数年はきれいごとだけでは済まなかった。6カ国14人まで広がったチームは、一時7人まで減った(その後、再び採用を進め、取材時点で11人)。レイオフも経験した。採用や退職をめぐり、難しい対応を迫られたこともある。旅行業はトラブルの連続で、「ほぼ毎日、契約書にサインしている」日々だ。顧客企業との契約条件と、ホテルなど現地パートナーとの契約条件が揃わず、自社だけがリスクを負いかねない状況になり、「1週間寝られなかった」こともあった。

「旅行は本当に、急に燃油が上がったりとか、マクロに大きく左右されるんです」
それでも、マクロ環境は山田の行動を止める理由にはならない。
第六章 行動力×運×成長――突破を生む3つの力

山田俊輔の行動力は、派手な逸話だけでは語れない。むしろ本質は、地味な反復にある。
たとえば、英語。渡米当初、彼の英語力は乏しかった。武器にしたのは、語学の才能ではなく時間だった。会議をすべて録音し、終了後に内容を訳し直し、聞き取れなかった箇所や、伝えきれなかった論点を一つずつフォローアップのメールで潰していく。
「会議の後の時間で巻き返していました」
そして、もう一つの反復がある。彼はこの4年間、毎週土曜日にメンバー一人ひとりへのフィードバックレポートを書き続けている。一度も欠かしたことがない。多いときは、それだけに4時間を費やす。
「平日は、ミーティングだらけでメンバーの仕事をちゃんと見られないんです。でも土曜日だけは、彼らの仕事を見るのを楽しみにしていて。GitHubを見て、『ここの考え方、すごく良かったよね』と伝えたりしています」

土曜日はチームへのフィードバックに時間を使う。日曜日は米国で起業を目指す人の相談に乗るなど、「自分の価値を発揮できるボランティア」に充てる。
彼の言葉を借りれば、人脈は「つなぐ」ものではなく「育てる」ものだ。
「人脈を育てるには、全力でその人のためになることが大事なんです。引っ越しを手伝うとかでもいいと思うんですけど」
象徴的なエピソードがある。ある著名シードVCが日本でLP(ファンドへの出資者)を集めたがっていると知った山田は、出資関係もないのに、東京で2日間、LP候補(VCファンドへの出資者)への訪問に同行した。日本語でのプレゼンを手伝った結果、何社かの出資が決まった。
「アメリカ人にはできないことで、僕らは彼らに貢献できた。そうしたら『お前、仕事できるな』と思ってもらえて、案件も人も、いくらでも紹介してくれる関係になれたんです」
見返りを計算したギブではないと彼は言う。「『これをしたから出資してくれる』とは思わないようにしていました」。それでも、回り回って返ってくる。10年以上にわたる行動が、彼にそう教えた。
このように、山田は圧倒的な行動量によって事業を大きくしていった。ただ、そこで見えてきたのは、単なる行動量の多さだけではない。
機会を見逃さない力も山田の強みだ。

著名投資家ジェイソンからの出資に至る経緯をひもとけば、最初の接点はClubhouseだった。Clubhouseでジェイソンを見つけた山田は、その場でRemotehourをピッチした。ジェイソンが自分のサービスに登録したことに気づくと、自ら話しかけた。「こうしたら?」というアドバイスにすぐ対応した。
Clubhouseでジェイソンに出会ったというだけで終わる人も多かっただろう。ただ、山田は違った。声かけ、DM、アドバイスへの即時対応。細い糸を一本ずつたぐり寄せたことが、出資へとつながった。目の前に機会が現れたとき、彼はタイミングを逃さず、それをつかむための働きかけを一度も省略しなかった。
同じく、最初の投資家であるRamonからの出資も、山田の「機会をつかむ力」によって実現したものだ。
Ramonとの出会いは、この出資の約2年前にさかのぼる。当時、RamonはY Combinatorに在籍し、日本でイベントを開催するために来日していた。
山田はRamonと話をしたかったが、イベントでは参加者の一人になってしまうと考え、TwitterでDMを送った。「日本の優秀な起業家を何人か連れていくので、カフェで話しませんか」。Ramonは時間を作ってくれた。それをきっかけに交流が始まり、サンフランシスコに行くたびに事業の相談に乗ってもらうようになり、Remotehourの最初のエンジェル出資にもつながった。
こうして山田は、わずかな出会いをチャンスに変えてきた。
機会をつかむために意識していることはあるのか。そう尋ねると、山田は答えた。
「張り続けることだと思います。スタートアップの人がいる場所に居続ける」
「どこに住むか、どういう人と付き合うか、自分の時間をどこに置くかは、常に意識しています。居心地が悪くても、張り続けることがとても大事です」
「あと、『なんでやらないの?』といつも自分に問いかけるようにしています。やらない理由が、単なる『気が進まない』という感情であれば、それを振り切ってやるようにしています」
英語の勉強。コールドコール。合わない社員との難しい対話。目を背けたくなるようなことほど、次の打ち手に変える。こうして機会を生み出していく。
「プレッシャーが好きなんです。投資家の方には『期待してください』と言っています。期待をかけてもらったら、その人たちを裏切れない」
それでも、心が折れることはないのか。そう尋ねると、意外な答えが返ってきた。
――自分を責めないこと。
「うまくいっていない時は、自己嫌悪になりがちなんです。実際、そうやって精神を崩してしまう人を、周りで何人も見てきました」
「でも、チャレンジして失敗している人を見たら、僕はかっこいいなと思うし、応援したくなる。だったら自分のことも、そういう対象として客観的に見ればいい。
Y Combinator共同創業者のPaul Grahamの『心が折れない限り、スタートアップは終わらない』という言葉を支えにしていました」
振り返れば、山田は一度目の失敗を、次の挑戦の突破口に変えてきた。
最初の渡米では帰国を余儀なくされたが、再渡米後は米国に根を張った。Remotehourは撤退したが、その経験をRetreatにつないだ。アクセラレーター「LAUNCH」の選考も最初は票がゼロだったが、通訳をつけて巻き返した。一度失敗しても、二度目で突破してきた。
山田が世界で一番好きな言葉は、Paul Grahamの「Relentlessly Resourceful」だという――意味は執拗なまでに活路を見つけ続けること。
そのマインドで、たとえ失敗しても、それを乗り越えてきた。
失敗を次の突破へ変えるものは何か。

「1つは、成長がとても大事だと思っています。挑戦し続けるだけでは、その場で終わってしまう。でも成長し続けていれば、いつか成功する。失敗したときに何がダメだったのかを、きれいな言葉じゃなくて、現実的に考える。コミュニケーションでアメリカ人に負けている、みたいな現実も含めて、成長に必要な現実を直視することは、すごく意識しています」
成長には、周囲の支えも不可欠だという。
山田は毎月第三土曜日の朝、同社に出資する米国のエンジェル投資家の自宅を訪れている。投資家は現在は米国ユニコーン企業の幹部を務め、トップティアVCとも共同投資するシリコンバレーのインサイダーだ。事業の課題や米国市場での戦略について意見を交わすだけでなく、親交を深めながら、現地での人脈や視野を広げている。こうした対話を継続することも、山田にとって大切な成長の機会となっている。
こうした挑戦を聞くと、山田は根っからの「行動する人」のように思えるが、実はそうではない。
「父の口癖は『現実は甘くない』でした。18年間ずっとそう言われて育ちました。その影響もあって、私は物事をまず悲観的に捉える癖があります。
『現実は甘くない』『今の自分では足りない』という事実を受け止めたうえで、それでもどうすればうまくいくのかを考えるようにしています」
「現実から目を背けずに向き合う姿勢は、父から受け継いだ一番大きなものかもしれません」
山田の行動力は生まれついてのものではなく、必要に迫られて身につけたものだった。
当初、この記事の軸に据えようとしたのは、その「行動量」だった。だが取材を重ねるうちに、それだけでは山田の軌跡を説明できないと気づいた。動いた後に必ず振り返り、成長する。行動によって得た機会を逃さず、手段を変えながら活路を探し続ける。
山田の強さは、行動量に「機会を見逃さない力」と「成長する力」を掛け合わせたRelentlessly Resourceful(執拗なまでに活路を見つけ続ける)という姿勢にある。
エピローグ 世界は変えられる
インタビューの終盤、日本へ戻りたいと思ったことはないのかと尋ねた。
「ないです」――答えは迷いなく返ってきた。
11年動き続けた男には、一つだけ確信めいた発見がある。周囲では多くの起業家が去っていった。米国から引き揚げた者。事業を畳んで戻らなかった者。それを見てきて、彼はこう考えるようになった。
「10年いろんな人を見てきて、続けること自体がすごく難しいんだと思うようになりました。逆に言えば、続けられる人は、それだけでアドバンテージがあるんです」
続けること自体が、才能であり、参入障壁である。そして、その継続を支えるのは、意志の強さだけではないという。
「Anyplaceの内藤さんはすごく近い存在で、彼は絶対に諦めないんです。その近くにいると、自分も同じように諦めない気持ちでいられる。仲間の存在は、大きいですね」
11年前、坂の上のシェアハウスで出会った男は、いまも彼の隣で走っている。
では、海外へ出る前の自分に一つだけ声をかけるなら、何と言うか。
「お金のことは、あまり心配しなくていいと伝えたいですね。『うまくいかなかったらどうしよう』という不安は、実際になってから解決できるものがほとんどなんです」
そして、山田は自分の未来も心配しない。
「自分の人生を賭け切っているので、引くつもりはないです。一度きりの人生で、ユニコーンを作れないこと、このプロダクトを世界で成功させきれないこと――それが嫌で嫌でしょうがないんです」
サンフランシスコの坂を、スーツケースを引いて上ってから11年。歯が溶けるほどの貧乏を経験し、チームを失い、涙を流した。事業も変わった。ただ、山田があの日、Airbnbを見て抱いた夢――「こういうアイデアでも、世界を変えられる」――は変わっていない。

取材音声(約 44 分)
この記事のもとになったインタビュー音声を公開しています。




